サーフィンの過去、現在、未来
 Lightning 7.1999 Vol.63 

 サーフィンというスポーツは1920年代にハワイからアメリカのカリフォルニアに渡り、サブカルチャーとして定着する。若い連中はこの新しいスタイルを持ったスポーツに憧れ、1950 年代を代表とするビートニクの主要人物、ケロアックさえもがこのスポーツに魅かれ西を目指したことから、ニューヨークのメディアもこの新たなスポーツに注目することとなったのである。
 サーフィンはマリブを中心にハリウッドの映画やTVを介して世界中に紹介されていった。そして、世界中の若い人々が海に対して憧れを持つようになる。そして、その効果 は現在でも持続しているようだ。何故ならTV番組の『ベイウォッチ』は世界で最も視聴率の高い番組なのである。
  サーフィンがメジャーになるに従い、ボードやウェットに新素材がどんどん注入され、その技術は飛躍的に発達していった。重いボードはウレタンフォームという素材のお陰で軽くなり、ボードの動きがアグレッシブになっていき、またウェットスーツの開発が冬や寒い地域でのサーフィンを可能にした。
 
 
 

 一方、サイドウォーク・サーフィンと呼ばれていた当時のスケートボードもウレタン素材のウィールが開発されたことから、海のない地域にもその『波乗り』の熱は伝わって広がっていった。  そして1970年代に入るとジミー・ヘンドリックスやLSDの権威、ティモシー・レアリー博士までもがサーファーとのコンタクトを積極的にとるようになり、1980年代にはアンディ・ウォーホルが「サーフィンはアメリカのコンテンポラリーアートである」と、このスポーツを絶賛したことから、アートの巨匠たちもが海に向かい始め、ニューヨークではサーフボードの個展が開かれるなど、完全にアンダーグラウンドからメジャーなカルチャーへと変貌していく。
  メジャーになるとそれまで起こらなかったような事故やトラブルも起きてくる。それらの問題を早くから考え、それに対処しようとした人間のひとりにトム・モーリーがいる。彼は子供でも簡単で完全に波に乗れるようにブギボードを開発した。今で言うボディボードだ。これにより、女性や子供、それからサーフィン禁止のエリアやショアブレイクのきついポイントでの波乗りが可能になり、サーフィンの可能性を更に拡げてくれた。
 全く波がなく雪に閉ざされた山でサーフィンができないかと考えられたスノーサーフィン(スノーボード)は今ではサーフィン以上にメジャーなスポーツとなり、雪山でのサーフィンさえもが可能となってしまった。
   日本はというと、1960年代に駐留していたアメリカ兵と湘南に住んでいた若い人たちが中心になって、そこから、徐々に全国へと広がっていった。そして、19790年代中期を境に一気にブレイク。途中何度かの人気の上下はあったものの世界的なロングボード復活の動きを受けて、今や海は週末の青山原宿と変わらないほどの混雑を見せている。
 「浮き輪やゴムボートで夏の海を過ごしていた人たちがボディボードやロングボードに乗り換えてきたからじゃないの?」というのは私の友人の意見だが、爆発的なサーファー人口の増加に伴い、サーファーひとりに対して自然が作る波の数は確実に減っていく。
 このことを見据えた上で、というわけではないのだろうが、横浜や宮崎でインドアのウェーブプールが1990年初頭にでき、冬や夜でさえもサーフィンを楽しむことが可能となった。ただし一本の波を生み出すのに消費する電力コストの掛かりすぎ屡点がネックだが・・・。
 一方、こういった人工の波を違うアプローチの方法で探っている集団がカリフォルニアにいる。トム・ロックフェルドという人間は、それまでとは全く違ったシステムを考え出した。そして、そのプロジェクトには前述のトム・モーリーやカール・エクストロム、それにクレイグ・スティシックといったサーフカルチャーのいわばフィクサーともいえる存在の連中が加わって進行している。
 アメリカのテキサスを皮切りにノルウェー、メキシコでは、既にいつでもサーフィンが楽しめ、そしてアラブ首長国連邦(UAE)のドバイにもこの夏新たなチューブを巻き出すファンウェーブが生まれるという。
 日本にもすでに何カ所かこの基本的なシステムを導入したプールが存在するが、それらはテキサスにあるようなチューブを巻くタイプではない。しかし、このスポーツに潜んでいる可能性は高く『横ノリ系』の新たなスポーツとして発展していくことは必至で、それに伴い国内にも本格的なシステムのプールが誕生するのも時間の問題だろう。